4月12日の毎日新聞にて宮脇先生の提唱される「いのちを守る森の防潮堤」計画についての記事が掲載されました。
◇「森の防波堤」構想の実現を
東日本大震災で大量に発生したがれきの広域処理が足踏みしている中、がれきを活用した「森の防波堤」構想がにわかに注目され始めた。がれきを埋めて土盛りし、その上に津波を防ぐ森をつくろうという構想だ。がれきは単なるごみではなく、被災者にとっては遺品であり、歴史の遺物でもある。次世代の生命を守る有用資材として活用し、防災意識を後世に引き継ぐ、防災文化の象徴としての森を整備するよう提案したい。
3月13日、がれき処理に関する関係閣僚会合で、野田佳彦首相は関東大震災で発生したがれきの上につくられた横浜市の山下公園を例にあげて、高台や防波堤建設にがれきを利用する案の検討を指示した。
森の防波堤構想は、宮脇昭・横浜国立大名誉教授(植物生態学)が震災後まもなく提案した。私は昨年6月5日の本紙朝刊で「いのちを守る緑の防波堤構想」として、それを紹介した。
宮脇さんの構想では、がれきから有害物質を取り除き、木質系(木材、流木)とコンクリートを中心に土と混ぜ合わせて海岸沿いに埋める。そこに土盛りし、上に土地本来の常緑広葉樹を植える。
常緑広葉樹は根が深く、さらに、埋めたがれきの隙間(すきま)に根が絡み、丈夫な森ができ、津波にも耐える。樹木の波砕効果で津波の威力が軽減され、引き波によって人や家屋が海に流されるのを防ぐ。
私が宮脇さんに同行した東北3県の被災地調査では、津波を受けて残っている常緑広葉樹が多く見られた。
◇和歌山県の「広村堤防」という先例
がれきを埋めた堤防の先例が和歌山県にあると聞き、同県広川町の国の史跡「広村堤防」を訪ねた。
広村堤防は安政元(1854)年の安政の南海地震津波を契機に、当時の実業家、浜口梧陵が整備した。漁港と住宅地の間に、高さ3〜5メートルの土手が636メートルにわたって続く。高さ約15メートルのマツが海側の斜面に並び、宅地側はマサキやサンゴジュなどの常緑広葉樹が茂る。堤の上に延びた小道では子供が遊ぶ姿が見られ、散歩する住民も多い。林間から海が見えるため、海の異変に気付きやすい。
土手のかさ上げには、津波で打ち上げられた石などが利用され、失業した被災住民を雇って整備した。1946年の昭和の南海地震では4〜5メートルの津波に襲われ同町で22人が犠牲になったが、堤防に守られた中心部の家屋は無傷だった。
感心させられたのは、堤防を核に防災意識が受け継がれていることだ。毎年11月、消防団や小中学校の子供たちが参加して堤防前で「津浪祭」が開かれ、子供が各自持ち寄った土を堤にまいて補修する。今年は110回を迎える。子供を含めた町民が堤防の草取りやごみ拾いを欠かさない。さらに、町の有志15人が「語り部ボランティア」になり、堤防や浜口梧陵について説明する。津波の教訓や防災への構えが地域文化として根付いている。
東北の被災3県のがれきは計2246万トンあり、うち処理できたのは8.1%にすぎない。今後は建築物の基礎をはがしたコンクリート片が大量に追加されることは明白だ。がれきを早期に処理する上で、森の防波堤への利用は有力な選択肢になる。
実現に向けた壁の一つに、法的問題がある。環境省によると、廃棄物処理法では、コンクリート片を資材として使用することを認めているが、木質系は腐敗してメタンガスが発生したり、自然発火する恐れがあるため、同法に抵触する可能性があるという。陥没の危険性も指摘する。
◇法を弾力運用し特例で道を開け
そうだろうか。3年前に宮脇さんの手法を採用し、広島県呉市の野路山国有林で行われた試験植樹では、深さ1メートルの穴にスギ丸太などを土と混ぜて入れ、その上に植栽したが、火災や陥没も起こっていない。
宮脇さんによると、木質系は腐食して分解されるため、樹木の養分となり成長を促すという。野田首相の指示を受けた環境省は法的問題の検討を進めているが、特例として、法の弾力的な運用で、木質系も入れた構想の実現に道を開くべきだ。
宮脇さんの提案を受け、森の防波堤構想に取り組もうとしている被災地の自治体は複数ある。住民が植栽作業に参加すれば、住民自らがつくる堤防となる。
がれき処理の問題を解決し、次の津波に備え、災害の記憶と防災意識を後世に残す−−。森の防波堤構想はそうした意義を持つ、地域の生きた復興策になるはずだ。
(毎日新聞 2012.4.12)